白坂和哉デイウォッチ

葉梨康弘 前法務大臣の「死刑制度」をめぐる”軽々しい”暴言と「国家権力」

Introduction:「だいたい法相は朝、死刑のハンコを押す。昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ」といった犯罪者と言えども人命を軽視した発言で、物議を醸したのが自民党の衆議院議員 葉梨康弘・法務大臣だ。このことが原因で葉梨氏は11月11日、辞表を提出したが、これは岸田首相による事実上の更迭とみられている。
今回は葉梨前法務相の問題発言と、死刑制度をめぐる国家権力についての考察である。

葉梨元法務大臣は「議員辞職」こそ相応しい

この問題について、まず最初に指摘しておきたいことがある。
それは、国家というものは殺人を犯罪として取り締まる一方で、あまりに凶悪な殺人に対しては「死刑」を適用するということだ。つまり、国家は殺人を否定する一方で、死刑という ”国家による殺人” も行っている。これは大いなる矛盾である。

なぜ、このような矛盾が成り立つのか?
それは戦争はともかく、「死刑制度」は社会を維持する名目において、我々の暗黙の了解の上に成り立つ制度になっているからだ。我々国民の暗黙の了解の上に ”国家による殺人” が成り立ってしまうというのであれば、それは最も顕著でかつ、最高度の国家権力の発露に違いあるまい。そして、そのような人命を奪うという国家権力の行使は「死刑」と「戦争」以外に存在しないのである。両者とも ”殺人” という最も重い罪が「合法化」されている。
そんな国家や社会に対する暗黙の了解(=契約)を、作家の辺見庸氏は「黙契」と呼んだ。

このように、我々の社会構造は、究極的な部分において矛盾に満ちている。

刑罰はひとたび司法が判決を下せば、あたかもベルトコンベアーに乗せられたかのように刑の執行が為されてゆく。
ところが死刑だけは唯一、行政権のトップである法務大臣がハンコを押すといった ”ひと手間かけた ” 二重チェックにより、慎重に慎重を重ねた上で初めて執行される制度である。だからこそ、死刑に関する軽はずみな発言など、到底許されはずもない。
そのような現実を踏まえると、今回の暴言は葉梨康弘氏が法務大臣の辞表を提出することで済む問題なのだろうか?
法務大臣辞任ではなく、議員辞職こそ相応しいのではないか?

鳩山邦夫の自動で死刑ができる方法とベルトコンベアー

「ベルトコンベアー」と言えば、過去にこれにちなんだ問題発言をした法務大臣がいた。既に鬼籍に入られた人物だが、自民党の衆議院議員 鳩山邦夫氏である。
鳩山氏が法務大臣であった2007年9月、「ベルトコンベアーというわけではないが、死刑確定の順番通りなのか乱数表なのか分からないが、自動的に客観的に刑の執行が進む方法を考えてはどうか?」といった趣旨の発言をしている。当時、この「自動的に死刑執行ができる方法発言」「ベルトコンベヤー発言」は大問題となったが、彼が法務大臣を辞職したり、更迭されることはなかった。
というのも、この発言があった2007年9月25日は、第一次安倍政権が総辞職した日である。つまり、当時の安倍晋三首相が「腹が痛い」といって政権を投げ出した直後の記者会見だったのだ。法務大臣であった鳩山氏が言わば自暴自棄となり、敢えて不用意な問題発言をしたとも受け取れる。だから辞めさせようにも既に辞職しているわけだから、それ以上は如何ともし難く、法務大臣の問題発言として後世に伝えられることとなった。逆に言えば、辞職した後でないとそういった発言はできないとも言える。

そんな鳩山邦夫氏は、法務大臣時代に13人もの死刑執行に判を押している。
鳩山氏は第一次安倍政権の崩壊で一旦法務大臣の職は辞したものの、後続の福田康夫内閣で再任されている。彼が法務大臣であった期間は、安倍政権時と福田政権時を合わせて約1年間だ。つまり鳩山氏は、割合としては1カ月に1人、死刑囚に対して刑の執行を命じていたことになる。これは極めて多い数字だ。

2008年6月、鳩山邦夫法務相が3件の死刑執行を命じた際、朝日新聞の夕刊は「永世死刑執行人。またの名、死に神」として、鳩山氏を揶揄するコラムを掲載した。鳩山氏は「どんなにつらくても社会正義のためにやらざるを得ない」としてこれに反論。法務大臣として職務を全うしたに過ぎないと主張した。
これは確かに朝日新聞の不用意な表現であった。日本の法制上、法務大臣が死刑執行に認可を与えたことで非難される言われはない。朝日新聞は約2カ月後の朝刊紙面に事の経緯を掲載し、「適切さを欠いた表現だった」として ”死に神” の件を謝罪した。

「死刑廃止」が世界標準である

死刑制度は、国際的な潮流に照らせば廃止の方向に向かっている。先進国ではアメリカの一部の州、そして日本、韓国ぐらいである(ただし、韓国は1998年以降、死刑を行っていない)
国際人権団体アムネスティ・インターナショナルの統計によれば、2018年時点で正式に死刑を廃止した国は「106カ国」、韓国のように事実上廃止した国は「142カ国」にも上るという。国連加盟国「192カ国」の、実に7割ほどの国が死刑を執行していないことになる。ヨーロッパに至っては、独裁国家ベラルーシ以外は死刑制度を完全に廃止しており、EUに加盟する条件の一つが「死刑廃止」である。

なぜ、死刑制度は世界的に廃止の方向に向かっているのか?
端的に言えば、死刑制度は「人権問題」だからだ(日本人が最も苦手な分野?)――「国家権力」の名のもと、人命を奪ってもいいのか?そういった根源的な問題に真剣に取り組んだ結果、多くの国が「死刑廃止」に舵を切っている。もちろん、死刑廃止にはその国の政治や宗教、歴史とも大きく関わっていることを無視してはならない。そういった大きな世界観のもとで喧々諤々の議論(これも日本人が苦手!)をした結果、死刑廃止へと向かったと考えて良いと思う。

翻って、今回の葉梨元法務大臣による不用意で軽はずみな発言『だいたい法相は朝、死刑のハンコを押す。昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ』はどうだ?
葉梨氏による発言はこれが最初ではない。いたるところでウケを狙い、半ば自虐的に発言していたことがバレてしまっている。これは彼の ”鉄板ネタ” だったのだ。ここに自民党政治、日本の政治のレベルの低さが窺い知れる。
さらに葉梨氏は『外務省と法務省は票とお金に縁がない。外務副大臣になっても金がもうからない。法相になってもお金は集まらない』とまで言っている始末だ。この発言にこそ ”金権政治” の一端が垣間見れるだろう。

低レベルの政治、そして金権政治。
日本の政治家が人権問題として死刑制度を語れるのは、まだまだ遠い先の話のようである。

 
 
 
  

モバイルバージョンを終了