白坂和哉デイウォッチ

【新元号「令和」特別企画】 主要6紙 巻頭コラムランキング

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Introduction:平成31年4月1日、日本政府は平成に代わる元号を「令和(れいわ)」と決定し、菅義偉・官房長官が首相官邸で行った記者会見で発表しました。そして、翌日の新聞各紙は一面でこれを大々的に報道、今や日本は全国津々浦々まで新元号「令和」一色に染まった感があります。

 しかし、どうでしょう?
 新聞については主要紙から地方紙にいたるまで、その報道はどれも画一的で、独自性に欠けると思いませんか?どの新聞を眺めても皆同じような報道っぷりだと感じませんか?
 
 これは日本独特の記者クラブ弊害とも言うべきもので、大きな出来事であればあるほど、個々の新聞の個性が失われてしまうのです。
 しかし、新聞はまだ捨てたものではありません。記事で色が出せない分、各紙は巻頭コラム(朝日新聞の『天声人語』などが有名ですね)でしのぎを削っているのです。

 今回の主要6紙の巻頭コラムを比較し、当サイト独自のランキング形式にて発表したいと思います。

第1位 産経新聞『産経抄』

 今年の2月24日に亡くなった日本文学研究家・文芸評論家である、ドナルド・キーン氏を引き合いに出したのがポイントです。
 「日本最古の歌集であるだけでなく、ほとんどの日本文学研究者の意見では日本最高の歌集である」といったキーン氏の万葉集に対する評価は、彼の誠実な人柄と相俟って読者を惹きつけます。

 今回の『産経抄』の妙たるところは、終盤に興味深い歴史のエピソードを持ってきたところにあります。産経らしいと言えば ”らしい” のですが、万葉集が編纂された7世紀頃は、中国に強大な王朝「唐」が勃興し、日本にとっての脅威となっていたという、実は、このことはドナルド・キーン氏が注目していたという記述です。

 これは、現代日本が直面している中国脅威論と見事に符合する歴史的な偶然性であり(この指摘が産経らしいのですが・・・)、万葉人がそれを乗り越えたとして、現代日本人に対しても一つの「問い」を投げかけています。
 
 産経新聞としも「令和」を考案した識者を知りたかったようですが、そこはそれ、「読み人知らず」もまた万葉以来の日本の美意識であると結ぶあたり、洒脱に満ちた良くできたコラムと言えましょう。

●『産経抄』の全文は次のリンク先で読むことができます。
 無料の会員登録が必要です。
 https://bit.ly/2uM55lg

第2位 朝日新聞『天声人語』

 新元号「令和」は万葉時代の歌人、大伴旅人が太宰府長官時代に宴会を開き、その時につくった歌「初春の令月にして、気淑く風和ぎ・・・」からの引用であることは広く周知されましたが、なんと、この大伴旅人という御仁、当代一流の識者でありながらトンデモ発言をしていたという逸話が冒頭に紹介されています。

 それが「なかなかに人とあらずは酒壺に成りてしかも酒に染みなむ」です。(訳:いっそ人間をやめ、ずっと酒に浸れる酒壺になりたい)なかなかの酔っ払いぶりですね。

 さて、天声人語によれば 「初春の令月にして、気淑く風和ぎ・・・」には続きがあるというのです。それが「天空を覆いとし、大地を敷物として、くつろぎ、ひざ寄せ合って酒杯を飛ばす。さあ園梅を歌に詠もうではないか」という下りです。宴会の場が大いに盛り上がっている様が読み取れます。

 どうやら朝日新聞は「初春の令月にして、気淑く風和ぎ・・・」を、花鳥風月や風流といった文化的なものとして見なしていません。コラムの最後はこのような言葉で結ばれています。

 「酒席で述べた挨拶が1300年後の元号になってしまうとは。二日酔いの夢にも想像しなかったことだろう」

 つまり、朝日新聞にしてみれば、新元号「令和」は酒飲みの戯言だというのです。
 これほど痛烈な安倍政権批判は他に類を見ないでしょう。ただ、一般人には少しわかりづらく、朝日新聞特有の変化球的な文章に溺れた感も否めません。

 安倍首相が嫌いならば嫌いと、もっとストレートな批判表現に努めれば、朝日新聞の発行部数も伸びるだろうといった期待も込めて、今回は2位とさせていただきました。

●『天声人語』の全文は次のリンク先で読むことができます。
 無料の初月無料の会員登録が必要です。
 https://bit.ly/2YLJyqC

第3位 毎日新聞『余禄』

 江戸時代の元号「天保(てんぽう)」はそれまで何度か候補に挙がりなら、そのたびに落選していたそうです。「付き従う臣民がたったの十人」という意味にもとれ、縁起が悪いというのがその理由です。

 このように、元号をめぐりあれこれと論じ合うことを「難陳(なんちん)」というのだそうです。このことを筆者は初めて知りました。
 『余禄』では、このような「難陳」がインターネットでも展開されましたよね?と指摘しています。

 なるほど、確かにその通りで、安倍首相の「安」の字が入るの入らないのといったように、高校生から年配の方まで、国民的関心を集めたのは間違いありません。
 今回の元号をめぐる難陳騒動については、日本人のアイデンティティを再確認する意味でも有意義なことだったと思います。

 また、このような経過を経て皇位継承されるのであれば、皇室についての関心もさらに高まるのではないでしょうか。これこそが日本の文化であり、明るい新時代を予感させる意味で秀逸なコラムと言えましょう。

●『余禄』の全文は次のリンク先で読むことができます。
 https://bit.ly/2Uz2dXo

第4位 日本経済新聞『春秋』

 テーマは越境、クロスボーダーです。
 最初に紹介されたのが米国で生まれ、日本語を母国語とせず、日本語で小説を書いている作家のリービ英雄氏です。そのリービ氏がしばしば語る言葉が「文化は越境する」だそうです。

 確かに万葉集の記載はことばひとつ一つに漢字を当て込んだ構造になっていますし、そういった漢字文化を咀嚼し、独自のひらがな文字文化を開花させた日本人の底力は文化のクロスボーダーを体現していると言えるでしょう。

 『春秋』曰く、「令和」の出典となった令月も元は漢籍にあり、梅の花を愛でる習慣も海を渡って来たとのこと。
 アジアと日本の流れを見つめる契機になればとの思いは、確かにグローバル化が進む越境の時代にふさわしいでしょう。

●『春秋』の全文は次のリンク先で読むことができます。
 https://s.nikkei.com/2WE6CWu

第5位 東京新聞『筆洗』

 冒頭で触れられていますが、確かに、脚本家の山田太一氏が言うように「ノスタルジーは過去のいいとこ取り」なのでしょう。うれしかったこと、おもしろかったことはいつになっても忘れないものです。
 
 平成の時代はバブル経済が崩壊し、失われた20年に象徴されるような経済の停滞が現在も継続し、2度の未曽有の大震災を経験する中で世界的金融危機も目の当たりにしたにも関わらず、「日本人の七割が平成は良い時代だったと考えている」といった調査結果を紹介しています。

 ことほどさように、日本人の忘却癖を思い出させてくれた点を評価したいと思います。そしてこのことは、間違いなく「令和」の時代にも脈々と受け継がれてゆくことでしょう。日本人が覚醒するのはいつになるでしょうね?

●『筆洗』の全文は次のリンク先で読むことができます。
 https://bit.ly/2UgKMvE

第6位 讀賣新聞『編集手帳』

 これまで主要5紙の巻頭コラムを見てきましたが、評価のしようがないのが(評価に値しないのではありませんよ)、讀賣新聞の『編集手帳』です。
 
 仮名が生まれたのが10世紀頃で、その200年程前に編集された万葉集は漢字ばかりで埋まっていた。その中で美しい漢文を書く人がいて、その中に添えられた序文の一節から今回の「令和」が生まれたといった記述。

 何の抑揚もなく平坦で、凡庸極まりない文章の展開です。
 そして最後に、<人々が心を寄せ合って、好き、やわらかな世をつくっていく>理想は、新天皇となられる皇太子さま、雅子さまに良く似合う、で結ばれています。

 なんのことはありません。新天皇に媚びへつらうのが目的だったわけです。
 政府の広告塔と揶揄される讀賣新聞らしいコラムでした。

●『編集手帳』の全文は次のリンク先で読むことができます。
 無料の会員登録が必要です。
 https://bit.ly/2CWT7cW

まとめ:日本の新聞は巻頭コラムに個性が出る

 新聞がつまらなくなったと言われて久しい昨今です。
 現実問題として新聞の購読部数は年々減る一方です。日本で最も読まれているのが読売新聞で、発行部数が約850万と公表されていますが、この数字を信じる人はほとんどおりません。

 なぜ新聞が読まれなくなったかと言えば、端的に言って「どれも似たようなもの」だからで、これは記者クラブの弊害です。今回のような新元号発表といったビックイベントに際して、記者クラブは ”お上” から授けられたニュースネタを垂れ流すことしか能がないからです。だから、朝日新聞だろうが読売新聞だろうが、一面トップを眺めると同じようなことが書いてあったりします。

 それでも今回紹介した巻頭コラムには、新聞各社の「個性」を見出すことができます。
 皆一様に「令和」について書いていますが、その切り口たるや多種多様です。

 今回は朝日新聞が挑戦的なコラムで勝負を仕掛けていましたし、讀賣新聞は権力にすり寄る様がありありと見て取れました。一面に菅官房長官の写真ではなく、安倍首相の写真を掲載していたのは讀賣新聞だけです。ここに讀賣新聞の姿勢が如実に表れています。

 しかし、それでも構わないと思います。各新聞それぞれ独自の考え方や、独自の方向性があってしかるべきです。そして、それをもっと鮮明に打ち出すべきなのです。
 ところが実際はそうではなく、どこも似たり寄ったりの ”金太郎あめ” になっているような気がしてなりません。この悪しき習慣は、どこかの新聞社が倒産しないと断ち切れないのでしょうか? 

 新聞社がいつまでも特権的な地位を甘受できると思ったら大間違いです。その答えは「令和」の時代にきっと下されることでしょう。

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