Introduction:米トランプ大統領と、北朝鮮 金正恩 委員長との歴史的会談から1年。
「金正恩氏から素晴らしい手紙を受け取った」とのニュースに歩調を合わせるかのように、2017年2月に暗殺された金正男は、実はアメリカCIAのエージェント(情報提供者)だったいうニュースが飛び込んできました。
これに対してトランプ大統領は「そのような情報は把握していない。私の政権下ではそのようなことは起きないと、金正恩氏に伝える」とコメントし、暗にオバマ前大統領への牽制姿勢を見せました。
実に奇妙なタイミングですが、この金正男と過去に接触を続けていた日本人記者の存在はご存知でしょうか?
その記者とは、東京新聞論説委員の五味洋治氏です。
金正男 独占告白の衝撃
2012年1月。当時、東京新聞の編集員だった五味洋治氏による『 父・金正日と私 金正男独占告白 』(文藝春秋、現在は文春文庫)が出版されたとき、 誰もが血湧き肉踊る書籍に出会ったと感じたことでしょう。
作家の佐藤優氏も 「国内外のインテリジェンス・オフィサーの間でも、大きな話題となっている」 と、東京新聞のコラム欄にコメントを寄せていました。
金正男氏と言えば2001年5月、ドミニカ共和国の偽造パスポートを使った日本への不法入国が発覚。3日間の取調べ後、中国・北京へ強制退去処分になったことを記憶している方も多いでしょう。
その際、彼が言った「ディズニーランドに行きたかった」は、あまりにも有名です。この瞬間から「世間ずれした金正日の放蕩息子」といったように、彼に対するマイナスイメージが日本人の間で固定化されたと思われます。
しかし、『独占告白・・・』は、金正男氏が極めて繊細で洞察力に富み、また社交的な人物であることを我々に知らしめました。
英語、フランス語、ロシア語、そして日本語を操る彼は、放蕩息子どころか ”インテリ” に属する人間だったわけです。
そんな彼が五味洋治という一人の記者に対し、心中を吐露していた。貴重でないはずがありません。
発端は2004年9月25日。
五味記者が北京国際空港で偶然、金正男を見かけたことから話が始まります。
五味記者はそれ以来メール交換を続け、そして単独インタビューにも成功しました(のちに150通ものメールと、7時間にも及ぶインタビューとなります)
※--- 『父・金正日と私 金正男独占告白』 より <引用開始> ---※
2010年11月6日 ※五味洋治が送信
こんにちは。今日は少し難しい問題について質問を差し上げます。
世襲の妥当性、軍事優先政治、改革・開放の可能性、ご自身のマカオの生活です。
お答えできる範囲で結構です。この点についての見解をお聞かせください。
回答は刺激的だった。父親が進める政策をほぼ全否定する長文のメールだった。
2010年11月10日 ※金正男が返信
世襲、先軍政治、開放の可能性、自身のマカオの生活ですね。
封建王朝以来、近来、権力世襲は、物笑いの対象になるでしょう。
社会主義にも符合しません。しかし北朝鮮の内部安定のために三代世襲というおかしな権力継承を選択しなければならなかったとすれば、それに沿うべきだということが私の考えです。特に父上が、あのように否定的だった三代世襲を今日、断行されなければならなかったことは、それなりの要因があったと信じています。
――弟の正恩氏についていろいろな評価があるようですが?
正男:この間、一年ほど北朝鮮に行っていません。外部から噂を聞くところによれば、住民生活を向上させているという感じは受けられずにいます。
平壌では住んでいる場所が違ったので、弟とは全く面識がない。会ったことがない。だから性格も分からないんです。
――弟の性格は父親譲りで荒っぽいという見方もあります。
正男:そうですか。それは良くないが、たとえ荒っぽいとしても何をやるかが問題でしょう。北朝鮮の住民が潤沢に、豊かに生きていけるようにしてほしいと願います。兄としてです。この言葉を受ける度量があると信じています。
※--- 『父・金正日と私 金正男独占告白』 より <引用終了> ---※
『父・金正日と私 金正男独占告白』については、当初、金正男氏は2012年10月の出版を望んでいました。しかし、その後「都合が悪くなったので、まって欲しい」と、出版時期を遅らせるよう求めてきた経緯があります。
理由は、2011年1月28日に東京新聞に掲載された記事(五味記者による単独インタビュー)が、どうやら北朝鮮当局を刺激したらしいのです。
つまり、金正男は自分が処罰の対象となることを恐れたわけです。
※ちなみに、 上記の通りインタビューの内容を引用させていただきましたが、紙面ではここまで詳細には記載されておらず、若干デフォルメされた表現となっています。
一方、五味洋治氏は、本を出版することで多くの人々が金正男氏に対して関心を持ち、北朝鮮も迂闊に手を出せなくなるのではないかと考え、出版にこぎつけました。
本は2012年1月に出版されたのですが、それを境に金正男氏との連絡は途絶えることになります。
金正男は北朝鮮の崩壊を予測した
2017年2月13日。金正男氏はマレーシア、クアラルンプール国際空港で暗殺されました。二人の女性が彼に飛びかかり、顔にVXガスを浴びせたことによる殺害でした。
それから2年以上経った今年2019年6月に、突如として金正男氏とCIAに関するニュースが舞い込んできたわけです。
また、金正男氏はCIAの他にも、韓国情報筋とも接触があったことをメディアは伝えていますが、それ以上の公開情報は目下のところありません。
ただ、金正男氏は我々が想像する以上に、過激な発言をしていたことは、五味洋治氏のその後の著作で垣間見ることができます。
金正男暗殺後に出された、五味洋治氏による『金正男の素顔』(文春 e-books)は、『独占告白・・・』で削除された(問題のある内容のために書けなかった)金正男氏からのメールを掲載しています。
これを読むと、金正男氏がかなり強い調子で、北朝鮮の体制批判をしていたことが分かります。
※2011年9月19日:金正男からの発信
北朝鮮が最近ロシアに近づいていることに過大な解釈を警戒しなければと考えます。北朝鮮はあと三 カ月余りで来る新年(二〇一二年)までに、短期的であれ、 経済成果を挙げ、住民たちに三代世襲定着に向けて、何か成果を見せようと努力 したのです。
父親がロシアを訪問し、経済協力などを議論したことは、このため だと見るのが正確だと思い ます。
考えてみて下さい。北朝鮮が経済協力や食糧の物乞いができるのは中国とロシアの外にどこがありますか?
~五味洋治『金正男の素顔』(文春 e-books)~
結局のところ、中国とロシアにすがるしかない北朝鮮を「物乞い」と表現するあたり、かなり強烈です。
五味氏によると原文では「クゴル」と発生し、まさに「物乞い」そのもので間違いないそうです。
※2011年12月7日:金正男からの発信
時がくれば外部情報に簡単に接することができる北朝鮮の中産階級は、政権に不満を表出するでしょう。
しかし残酷な統制システムのために、時間がかかるでしょう。
北朝鮮の閉鎖的経済システムでは金儲けが難しいのは事実です。
また金を儲ける人々が生存するために高位層に上納しなければならないわいろの金額が、日に日に上がっています。
あのように腐敗したシステムは必ず崩壊します。
ソ連が崩壊する直前を連想させます。
~五味洋治『金正男の素顔』(文春 e-books)~
金正男氏は北朝鮮の将来については常に言葉を選び、慎重だったようですが、この日のメールは強い口調で、しかも北朝鮮の崩壊にまで踏み込んでいるのには驚かされます。
金正男を警戒していた金正恩
金正男の弟、金正恩の著作集『最後の勝利をめざして』の中に、次のような記述があります。
革命家の血筋を引いているからといって、その子がおのずと革命家になるわけではありません。偉大な大元帥たちが述べているように、人の血は遺伝しても思想は遺伝しません。
金正恩『最後の勝利をめざして』(朝鮮・平壌 外国文出版社)
革命思想は、ただ絶え間ない思想教育と実際の闘争を通じてのみ信念となり、闘争の指針となり得るのです。
つまり、金正恩はこう言いたいのです。
金正男はたしかに金日成、金正日という革命家の血を引いているが、正しい思想を持っておらず、革命闘争も経験していないので「革命家ではない」ということです。