アーミテージ報告からテロ対策特別措置法へ
「目的・任務が武力行使を伴うものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されない。しかし、正式停戦が成立し、湾岸に平和が回復した状況の下で、わが国船舶の航行の安全を確保するため、海上に遺棄されたと認められる機雷を除去するものであり、武力行使の目的をもつものではなく、これは、憲法の禁止する海外派兵に当たるものではない。」
既成事実を形成するための軽いジャブを放ち、その後のPKO協力法においてその答弁は更なる変異を遂げる。
「”武力の行使”は”武力の使用”を含む。しかし、”武力の使用”がすべて”武力の行使”にあたる、とはいえない。例えば、生命又は身体を防衛することは、いわば自己保存のための自然権的権利というべきものであるから、そのために必要最小限の”武力の使用”は、憲法第9条第1項で禁止された”武力の行使”には当たらない。」
――何を言いたいのか意味不明である。
この小泉純一郎による発言と、冒頭で紹介した東条英機にる発言とは、その詭弁さ振りにおいて同質であると言えよう。”小泉劇場”なるものの正体は、案外この辺に見い出せるのかもしれない。
「武力行使はしない」と言っておいて、とりあえずは憲法違反を回避し、集団的自衛権も自然権的自衛権の武器使用ということでその批判を回避する。こうして小泉政権は曖昧的かつフワフワな詭弁を繰り返すことで自国の憲法を無力化してしまった。憲法の解釈はいかようにも可能であることを我々に見せつけたのだ。
小泉首相はその最終局面において「憲法の前文と9条との間には”隙間”がある」と指摘し、こうも発言している。
「常識的に考えれば戦力でしょう。ところが、定義、つまり法的定義によって戦力じゃないと定義しているんです、日本では。これが、世界の常識に合わせろというと、常識でない面もあるんですよ。」
「一般国民から考えれば、自衛隊は戦力だと思っているでしょう。しかし、憲法上の規定では戦力じゃないんですよ。ここが、憲法の難しさ。国民的常識で見れば自衛隊はだれが見ても戦力を持っていると見ているでしょう。今まで総理大臣はこういう答弁はしなかったんですよ。建前ばかりに終始して。そういう建前じゃいけない、本音で議論しようと、本音で。」
2006年8月15日。予告どおり終戦記念日に靖国神社参拝を済ませ、同年9月に小泉首相はその任期を終了した。
《私は、この戦争が決定的に愚かだったと思う、大きな一つの理由がある。
保坂正康『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』(新潮新書)
それは「この戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。当たり前のことであるが、戦争を始めるからには「勝利」という目標を前提にしなければならない。その「勝利」が何なのか想定していないのだ。
挙句の果てが、「陸軍」と「海軍」の足の引っ張り合いであった。
「日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っていたのではない。陸軍と海軍が戦っていた、その合間にアメリカと戦っていた・・・」などと揶揄されてしまう所以である。指導者たちが自分たちに都合のいい情報のみを聞かせることで国民に奇妙な陶酔をつくっていき、それは国民の思考を放棄させる。つまり考えることを止めよという人間のロボット化だったのだ。》