Introduction:4月に行われた新しい元号の発表から早いもので1カ月以上が経ち、そして、カウントダウンの大合唱の中、5月より新元号「令和」の時代となりました。
多くの日本人にとっては悲喜こもごものある改元でしたが、新しい時代を迎えるに当たっては、当然のことながら去りゆく時代の総括も方々から聞くことができます。
――去りゆく時代、すなわち「平成」とは私たちにとってどのような時代だったのでしょうか?
そして、来るべき「令和」の時代には、一体何が待ち受けているのでしょうか?
平成は戦争のない平和な時代だったと主張する人々
筆者の個人的な話を申し上げると、東京八王子市から実家のある福島県福島市へと移り住んで1カ月が経とうとしていますが、福島県の地元紙「福島民報」の5月2日の巻頭コラム「あぶくま抄」に興味深い記述がありました。
曰く、<平成の年表に「戦争」の文字は刻まれなかった。だが、海の向こうからは戦いや紛争を伝えるニュースが届いた。反戦歌の響かない世界をいかにつくるか。日本は戦後七十年余りにわたり戦火を交えていない。世界に類のない国家が、発信できるメッセージは多い>
また、5月3日にNHKで放映された特別番組「憲法記念日特集 令和の時代 憲法を考える」において、共産党の小池晃・参議院議員は「平成の時代には一人の戦死者も出さなかった・・・」と語りました。
確かにこれらの言説を見る限り、平成の時代には日本人が戦争や紛争に全く加担しなかったように受け止められますが、本当にそうなのでしょうか。
このことについては違和感を禁じ得ないのですが、平成の時代になっても世界では相も変わらず戦争が頻発し、日本もそれらに関わっていたということを、先ずは申し上げたいと思います。
平成の時代に戦争をしていた日本
<「ピー、ピー、ピー」 突然、操縦室に警報が響いた。同時にボン、ボンと鈍い音を残して炎玉のフレアーが気概に自動発射された。 「右だ!」機体が傾き、急激に右に旋回する。続いて左旋回。さらに右旋回、左旋回と警報が消えるまで切り返しは続いた。二〇〇七年十一月のことだ。
警報はミサイル接近を探知すると鳴る仕組みになっている。イラクに出回っているのは旧ソ連製の地対空携帯ミサイルSA7だ。熱源のエンジンめがけて飛び、機体近くで炸裂する。
警報機は操縦席の左右にあり、右が鳴れば右旋回し、左なら左旋回する。エンジンを翼で隠すためだ。機体をミサイルに向ける捨て身の戦法だけに「勇気がいる」と操縦士は口をそろえる。おとりのフレアーだけでは逃げ切れない。
バクダット便を経験した乗員は同じ感想を抱くという。「これは訓練ではない。実践なのだ」>
~半田滋『「戦地」派遣 変わる自衛隊』(岩波新書)~
時代が昭和から平成へと変わって間もない1990年8月、イラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争では、日本は戦闘員こそ派遣しなかったものの、約135億ドルに及ぶ戦費を多国籍軍に資金援助したことは周知の通りです。しかしながら、そのような姿勢は国際社会から評価されることはなく、これが国家的なトラウマになったのか、2003年3月に起こったイラク戦争ではイラク特別措置法を根拠に、陸・海・空の自衛隊がイラクに戦地派遣されることになりました。
これだけでは日本は戦争に参加していたようには見えません。湾岸戦争ではお金しか出していませんし、イラク戦争でも医療活動やインフラ整備、そして輸送といった活動支援を展開していたからです。一般的には、これらの活動は人道支援であって戦争とは見なされないでしょう。しかし、これらの活動も立派な戦争であると言えるのです。
二千年前でも戦争の本質は変わらない
司馬遼太郎の人気小説『項羽と劉邦』は、二千年以上前である紀元前3世紀頃の中国の戦国時代を描いた作品ですが、この作品の特徴の一つとして、いかに兵士を「食わす」かを、事あるごとに触れている点にあります。
<能力の英雄のもとには、五万、十万という流民――兵士――がたちまち入りこんでしまい、一個の軍事勢力を形成する。二十万、五十万といったような流民の食を確保しうる者が世間から大英雄としてあつかわれ、ついには流民から王として推戴されたりする。>
<滎陽(※筆者注:けいよう)というのは、現在の鄭州市の東方にある小さな城市である。ここからはるか西方の首都咸陽に向かって水運の便があり、主として南方からの租税が河川や運河を伝ってこの滎陽に集められ、いったん倉にほうりこまれて逐次、西へ運ばれていく。この滎陽を奪れば、陳勝は傘下の流民の飢えをまぬがれさせることができるはずであった。>
~司馬遼太郎『項羽と劉邦』(新潮文庫)~
古今東西、戦争に関しては戦略戦術、兵器、人々の生死ばかりがクローズアップされますが、戦争を起こすに当たって ”いの一番” に考えなければならないことは兵士の食糧調達や輸送を始めとする軍の管理、すなわち兵站(へいたん)です。この兵站が確立されなければ、そもそも戦争が成り立ちません。だから、湾岸戦争でもナポレオン戦争でも、そして、二千年以上前の戦国時代であっても、現場指揮官はまず兵站を気にし、確立に務めるわけです。
誤解を恐れずに言わせて貰えば、兵站こそが戦争そのものといっても過言ではありません。
先ほど紹介した半田滋氏の『「戦地」派遣 変わる自衛隊』に書かれているのはイラク戦争時、空輸活動に従事していた航空自衛隊C130輸送機に起こったシリアスな局面です。中には誤報もあったようですが、航空自衛隊輸送機はミサイルにロックオンされるといった、まさに ”戦争の渦中” に放り込まれていたことになります。
さて、日本におけるイラク戦争派兵については、その違憲性を巡り訴訟が起こされ、2008年4月に名古屋高等裁判所にて画期的な判決が下されることになります。
つまり、航空自衛隊のC130輸送機によるイラク戦争での空輸活動は、政府の言う「イラクのための人道支援」ではなく、「戦場における兵站活動」であり武力行使の放棄を定めた憲法9条第1項に違反しているとして、「違憲・違法」であるといった判断が下されたのです(青山邦夫裁判長)
ただし、イラク派兵差し止めの訴えについては棄却したため、結果として国側が勝訴する形となりました。それでも、司法が戦時おける兵隊活動の何たるかについて本質を見極め、真っ当な判断をした点においてこの判決は極めて重要で、歴史に残る判決と言えるでしょう。
以上の点から、平成の時代は決して ”内平らかに外成る” といった平和な時代などでは決してなく、日本は戦争にすら参加していた時代であると定義して差し支えないと考えられます。
令和の時代に戦争が起こる!
平成の時代、日本は曲がりなりにも戦争に参加していたわけですが、令和の時代はいよいよ直接的に戦争へ参加する、つまりは戦争の当事者となるかもしれません。
戦略思想家であり、アメリカ・ワシントンの米戦略国際問題研究所(CSIS)の上級顧問でもあるエドワード・ルトワック氏は、彼の著書『戦争にチャンスを与えよ』(文春新書)において興味深い主張を展開しています。
彼に言わせれば、平和の時代にあっては人々の気持ちが緩んでしまっているがために、脅威が存在していたとしても「まあ大丈夫だろう」といった具合に、敵の脅威に対する対策を怠ってしまい、平和が戦争をもたらす場合があるというのです。
逆に、いったん戦争が始まると、資源や資産を消耗することになるので、この過程において当初戦争に対して抱いていた夢や野心は幻滅へと変化してゆき、資源や資産が尽き、人材が枯渇し、国庫が空になった時点で初めて平和が訪れる。
<最も難しいのは、「戦争ではすべてのことが逆向きに動く」というのを理解することだ。たとえば、「戦争が平和につながる」という真実である。戦えば戦うほど人々は疲弊し、人材や資金が底をつき、勝利の希望は失われ、人々は野望を失うことで、戦争は平和につながるのだ。>
~エドワード・ルトワック『戦争にチャンスを与えよ』(文春新書)~
日本では、自衛隊の存在を憲法に明記するといった ”改憲” 案が、安倍首相によりあらためて提言されましたが(5月3日 産経新聞1面『首相「改憲」の旗掲げている』)、憲法9条にせよ、自衛隊のありかたにせよ、果ては徴兵制にいたるまで、そのような議論などまるでするつもりがないのが現代日本人の実態なのではないかと思われます。また、首相の言う改憲にしても、日本国憲法をより実態に即した内容にアップデートするというよりは、むしろ自己栄達の手段であるかのように一部では囁かれてもいます。
憲法改正についての国民的議論が起こらない日本は、果たして平和なのでしょうか? 先のルトワック氏が述べるように、近隣諸国の脅威に対し問題を先送りしながら「まあ大丈夫だろう」と高をくくっているのが日本人であり、このような慢心が実は戦争の呼び水となるのかもしれません。