Introduction:年間に封切られる映画は邦画、洋画も含めて膨大な数に上りますが、一般にはあまり知られていない中で、映画『主戦場』は文字通り今最も熱い ” BattleGround” になっています。
この作品は、旧日本軍の「従軍慰安婦」を扱ったドキュメンタリー映画というふれ込みですが、今年の4月に封切られるや賛否両論が噴出。
現在、上映をめぐって出演者から上映中止の法的手段まで取り沙汰されています。
『主戦場』―監督のプロフィールと作品スタイル
ユニークな経歴を持つこの監督は、日系二世のミキ・デザキ(MIKI DEZAKI)氏。
アメリカの大学で医学を学び、その後来日。山梨県と沖縄県の中学・高校で英語を教える傍ら、YouTuberとしても活動しました。
また、タイで仏教僧の修行を行い、再来日した際に上智大学大学院(グローバル・スタディーズ研究科修士課程)に入学しています。
今回の作品は、元々は大学院の修士修了プロジェクトの一環として制作され(つまり卒業論文のようなもの)、大学へも提出された学術的な研究結果となっています。
この作品の特筆すべきは、その映像スタイルにあります。
従軍慰安婦問題をめぐり、慰安婦の存在を否定する人々(慰安婦否定派)と、慰安婦の存在を肯定する人々(慰安婦肯定派)といった、対立する陣営の主張を交互に映し出し、そのスタイルは基本的に作品全体を通して変えていません。
普通、このようなディベート形式の映画は単調になりやすく、途中で中だるみも起きるのですが、122分という一般の映画作品と変わらない尺を持ちながら観客を飽きさせることなく、最後まで作品に引き込むことに成功しています。
この点については、ストーリー展開の速さや編集の上手さ、とりわけ「右派」と「左派」の分かりやすい(しかし、現実的には困難な)直接的な対立構造を見事なまでに可視化しているからでしょう。さすがYouTuberだと、妙に感心させられます。
つまり、慰安婦問題の真偽は別として、非常に「面白い」作品となっています。
※一般に、保守は慰安婦否定派、リベラルは慰安婦肯定派と捉えられがちですが、必ずしもそうではありません。ただ、この作品では右派(保守:慰安婦はいなかった)、左派(リベラル:慰安婦はいた)といったステレオタイプな ”味付け” がされている印象は否めません。
右派の抗議記者会見―デザキ監督に「だまされた」
『主戦場』の上映をめぐっては5月30日、この作品に実際に出演した保守系論客らによる記者会見が開かれています。
記者会見に臨んだのは 「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長・藤岡信勝氏 、山本優美子氏(なでしこアクション)、藤木俊一氏(トニー・マラーノ<通称:テキサス親父>のマネージャー)ら3名です。
その他にも、この作品には保守系の論客として、米国弁護士のケント・ギルバート氏、ジャーナリストの櫻井よしこ氏、衆議院議員・杉田水脈氏らが出演していますが、彼らはデザキ監督に「だまされた」と非難。「編集が中立でなく、発言が切り取られている」とし、作品に対して抗議するとともに、上映の差し止めを求める抗議声明を出しました。
保守系論客の側にしてみれば「大学院生の学術研究だというので協力したが、まさか上映されるとは思わなかった」という立場。
一方のデザキ監督は「一般公開についての合意文書については取り交わしていますよ」と言ったように、双方の見解が食い違っていますが、それは本質的な問題ではありません。
ではなぜ、保守系の面々が噴き上がっているのかいうと、彼らの露骨な差別発言が、はっきりとスクリーンに映し出されているからです。
「それを言っちゃあお終いよ」―右派のトンデモ発言
「ブスな女とセックスするときは、頭に袋を被せればいいよね。慰安婦像をを見にいったとき、僕は紙袋を持って行った。それがふさわしいと思ってね。ブスな連中には紙袋がお似合いだ」
~トニー・マラーノ~
「フェミニズムを始めたのはブサイクな人たちなんですよ。要するに誰にも相手にされないような女。心も汚ければ、見た目も汚い。そういう人たちなんです」
~藤木俊一~
国家は謝罪しちゃいけない。国家は謝罪しないって、基本命題だから。国家は仮にそれが事実であっても、謝罪したら、その時点で終わりなんです」
~藤岡信勝~
実際にこれらの発言を映像で目の当たりにしたとき、「嗚呼、やってしまったな」と、筆者は思わずにはいられませんでした。
確かに、話の前後関係を吟味すると、もっと違った意味合いになるのでしょう。だから彼らは「発言が切り取られたと」感じたのでしょうが、時すでに遅しです。
おそらく、インタビュアーであるデザキ氏が大学院生だと聞き、彼らはすっかり油断し本音が出たのでしょう。それにしても、スクリーンに映し出される彼らの論調は(実際はそうでないのに関わらず)少しお粗末な印象を受けてしまいます。
特に、杉田水脈氏があまりよろしくありません。全体としてチャラけた印象で、従軍慰安婦など存在しない彼女なりの根拠が、実は “伝聞” でしかないといった雑駁(ざっぱく)な印象を与えてしまいました。
左派の主張する20万人 ―そんなにいたのか?
その一方で、慰安婦肯定派である、一般的に左派と呼ばれる人々の発言もモヤモヤする点があります。
従軍慰安婦については「20万人もの女性が犠牲になり・・・」といった言葉をよく耳にしますが、この数値の根拠が非常に薄い、いやもしかしたら ”根拠などない” のかもしれないのです。
「日本の陸海軍の軍人数は最大で350万人ぐらいですが、最前線には慰安所がなかったと仮定すると、ある時点で300万人くらいの兵隊に対して慰安所がつくられたと仮定します。日本軍の場合は100人に1人の割合で慰安所を設置するという基準を持っていますので、そうすると3万人という数字が出ますよね・・・」
~吉見義明(歴史学者)~
大きな人権団体などが、慰安婦問題についてレポートを書く、と。そのとき相談をされれば20万人という数字は使わずに、もう少しアバウトな数を使うことを勧めます。40万と聞けば、40万という数字を使おうと思うんです。わざわざどれが一番いいかと考えずに、多いほうを使うということも多分あると思うんですね。
~渡辺美奈(アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館)~
歴史学者の吉見義明氏の見解は、冷静に考えれば単なる数字遊びの範疇を出ておらず、これをもって20万人と仮定するにはあまりにも無理がありますし、渡辺美奈氏にいたっては観念的というか、哲学的というか、なにか宗教めいていて評価のしようがないというのが正直なところです。
また、慰安婦を肯定する他の活動家も、20万人という数値は研究者が発表した数値をそのまま使用していることを認めています。
ここから推測できるのは、人権活動家やマスコミは、学者・研究者の見立てた根拠のない数値を鵜呑みにしているだろうということ。だから、あらためて数値を問われた場合、その根拠がフワフワどこかに飛んでいってしまうのです。
安倍首相・日本会議・神社組織 ―主戦場的ロジック
『主戦場』は、あたかも左右が同じテーブルで論争しているかのような編集が施されていますが、映画の終盤に違和感を覚える場面があります。
「日本会議」の存在は、最近になって一般の方々にも共有されましたが、それがここにきてやおら登場し、黒幕として加瀬英明氏が紹介されるわけです。ただし、加瀬氏は「日本会議東京都本部会長」に肩書はありますが、直接活動するプレーヤーではありません。
つまり、こういうことです。
安倍首相は日本会議という組織を背景に軍拡を進め、かつての国家神道がまかり通った(靖国史観)戦前に回帰しようとしている。それには、慰安婦という負の遺産を抹消したい。だから、慰安婦問題をことさら無かったようにしたいのだ、と。
この作品は、保守・リベラル(右派・左派)といった言説を中立に受け止め、慰安婦問題を炙り出すのが目的でした(実際、デザキ監督も学術的研究のため、公平である倫理的義務があると語っています)
推測するに、デザキ監督は『主戦場』を「映画作品」として昇華させるにあたり、他のクリエイターがそうするように、何か「大きな物語」を探したのではないでしょうか?
そこで引っかかったのが、日本会議であって、そうすることにより慰安婦問題が日本という国家の問題へと脱皮させるに適切な流れであると感じたのは、なるほど理解はできます。
そして、「日本が憲法改正して軍拡を進めれば、我々アメリカ人のような戦争をすることになる。その覚悟はあるか!」といった趣旨の言葉で結びます。これは作品としてドラマチックな展開です。
先ず、デザキ監督がイメージする「大きな物語」(安倍首相・日本会議・神社組織)があり、それをドラマチックに演出するために左右の論戦がある。そのような構成を逆算して映画を製作したのであれば、この作品の ”面白さ” や終盤の ”違和感” について、筆者個人はすっきり納得できるのです。
まとめ ―壮大なるフィクション
最後にこんなことを言うのは身も蓋もないのですが、映画『主戦場』で語られる慰安婦問題については、新しい論点や見解、あるいはエピソードといったものは一切ありません。
デザキ氏の言葉を借りるなら、左右それぞれ言葉を尽くして彼を説得しようとしてきたわけですが、いずれにおいてもそれらの言説はこれまで語られてきたものばかりです。
つまり、慰安婦問題について、(極論を言えば)カードは出尽くしているわけです。
その中で右派はA、Bといったカードを選択すれば、左派はC、Dといったカードを選択する。
あるいは、右派がEというカードを右から眺めれば、左派は左から眺めるといったようにです。
よって、デザキ氏もこの慰安婦問題について、YouTuberなりの見せ方を工夫し、それは真偽の程は別にして、映画作品としては一応のモノはつくった。
この作品は、ミキ・デザキ氏の創造した ”フィクション” です。
~ 想田和弘 映画作家 ~
必見の映画だが、内容については書きたくない。
なるべく先入観を持たずに、真っさらな目で観てほしいからだ。
同時に、この勇気ある監督の身の安全を本気で心配してしまう。
それほど問題の核心に切り込み、火中の栗を拾っている。
それほど日本は危ない国になっている。