Introduction:7月21日、急性骨髄性白血病で亡くなられた山本寛斎氏を、一体どのように紹介すればいいのだろうか?

ファッションデザイナー? イベントプロデューサー?
そのような肩書で呼ばれることが多かった山本寛斎氏だった。しかし、どうもしっくりこない。

そんな中、1冊の本が脳裏をかすめた。
『寛斎完全燃焼』──デザイナー山本寛斎が絶頂を極めた1983年に出版されたその本は、彼の本質をありありと映し出しているように思われる。

今回は『寛斎完全燃焼』をもとに、山本寛斎氏の足跡を辿ってみたい。

でも夢を手に入れるまで、
やってやって……やってやってやりまくれ。
勿論君の人生は君のもの、
どってことなく生きたければ、
それも良い。
どんな生き方も自由に選べる。
もし君が大きな夢を
欲しいと願う一人なら
多分この本は刺激になるだろう。

山本寛斎『寛斎完全燃焼』(新潮文庫)
”まえがき” 部分一部抜粋 ※太文字は筆者による

『山本寛斎完全燃焼』──それまでのファッションショーの枠組みを超えた『晴海 寛斎パッションナイツ』を成功させた翌年1983年9月、この本は新潮文庫から発売された。当時、山本寛斎は39歳。デザイナーとしても頂点を極め、彼は全く新しい領域を開拓する情熱に燃えていた。

そんな寛斎の気分を象徴するのが、本書の ”まえがき” に記された彼の短い言葉「もし君が大きな夢を 欲しいと願う一人なら 多分この本は刺激になるだろう」だ。そして、筆者にとって印象に残っているのも、実はこの短いフレーズだったりする。寛斎はファッションの世界のみならず、挑戦者すべてに何らかのメッセージを伝えずにはいられなかったように思われるのだ。

山本寛斎は1944年、横浜の磯子区で生まれた。
8歳の時に両親が離婚し、彼は一時期、高知県の児童相談所に預けられていた。しかも、高知に行きつくまで引率してくれる大人はいなかった。彼は5歳と3歳の2人の弟を連れ、高知県まで列車の旅をするといった悲痛な経験を強いられたのだ。

その後、寛斎は父親に引き取られることになったが、全国を転々とする羽目になり、小学校高学年でようやく岐阜県の郊外に定着することができた。

父親はテーラーだった。
父親は寛斎によく服を作ってくれた。そんな影響もあってか、寛斎は子供のころから人並外れてお洒落だったという。

彼がファッション・デザイナーになったのは、彼の直感ゆえである。服をデザインすることが、一番自分自身を表現するのに早道だと思ったからだ。そんな ”ファッション” はもちろん彼の中で大きなウエイトを占めているが、それでも人生を芳醇なものにするための一つの手段でしかないと、山本は言う。

服飾評論家の深井晃子さんは「エキゾチックなデザインで世界の人の目を日本に向けさせたデザイナーだった」と語る。

「70~80年代に欧米で日本人デザイナーが知られるためには、正攻法では難しく、他とは違うことをやらないと通じなかった。日本的な伝統を前面に押し出した山本さんの手法は、海外の人にも分かりやすかったのでしょう」と深井さんはみる。

2020年7月27日 JIJI.COM 『「世界の目、向けさせた」 日本の美表現、欧米で反響―山本寛斎さん』

山本寛斎のデザインの特徴は何と言っても「大胆な色使い」と「カッティング」──これが全てと言っても過言ではない。それに、オリエンタルでエキゾチックな要素が加算され、洋の東西を融合したかのような寛斎ワールドを形成している。

山口小夜子

また、寛斎のコレクションに頻繁に登場していた、モデルの山口小夜子の存在を忘れてはならない。彼女は ”デザイナー・山本寛斎” のイメージを体現した唯一無二の存在であった。しかし2007年、急性肺炎のため57歳の若さで急逝してしまう。

感受性が鋭く、考えよりも行動が先に出てしまう。小学校で寛斎につけられたニックネームは ”ターザン” だった。せっかちでいつも動きまわっており、暑いと言っては上半身裸でいたからだ。

小学校4年生の頃から、豆腐売りや新聞配達のアルバイトもやるようになった。寛斎は学校の勉強よりも「体験」を重視する。単純なまでに目標に向かって邁進する性格は、生まれついた多動症的な気質ゆえあってのことだろう。

実は、小学生の頃は泣き虫で線の細い子供だったと寛斎は回想している。転校が多くそのたびにいじめにも合い、学校の授業にもついてゆけないことも多々あったからだ。

しかし、中学時代にひょんなことで引き受けた生徒会の応援演説が、意に反して大いにウケたことで、彼は内面に隠れていた強さや外向的な性格を発見する。寛斎は応援団に入り、そこで団長にもなった。その中で彼は、応援団の制服や応援スタイルといったものまでも、ファッショナブルなものに変えてしまった。

高校は地元岐阜県の工業高校土木課に進学した。単純にカッコいいという理由で、すし職人、高級船員、建築家に憧れ、最終的には建築も土木も同じだろうという理由で選んだ進路だった。

しかし、現実はと言えば、先輩たちは建設会社というカッコいいとは思えない企業に就職していたし、しかも授業に登場する三角関数や微分積分というものがまるで彼には理解できなかった。つまり、自分は数字に弱いことも発見したのである。

これらのことが相まって、寛斎は土木に見切りをつけ大学進学を目指すようになる。受かりそうな範囲で目をつけたのが日本大学の英文科。結果的にこの選択が寛斎をファッションの世界へと導くことになったと言える。

キャンパスで目撃したアイビー・スタイルに、寛斎は鮮烈な衝撃を受けたのだ。

最初の1年間は真面目に大学に通った。しかし、体制的な雰囲気に反発し、次第に足が遠のいていった。彼は代わりに、アルバイトでテレビ局へ出入りするようになった。バイト代と親からの仕送りのほとんどは、当時の人気のブランドVANとJUNの衣装につぎ込んだ。

アルバイトとお洒落と酒浸りの日々。そんな中で岐阜県の父の家業が傾き始めた。大学は休学届を出して一時は実家へ帰ったものの、最終的には大学を中退し本格的にデザイナーを目指すことに決めた。そこで門を叩いたのがコシノ・ジュンコ氏のアトリエだ。昭和39年、山本寛斎20歳の時である。

この頃、寛斎は極めて貧しい生活を経験する。コシノ先生からいただく給料は1万2千円。下宿代が5千円で、残り7千円が食事代だ。大盛カレーが150円だった当時、食事代にも事欠いていたことになる。

残業を終え六本木のアトリエから帰る道すがら、空腹のあまり入ったラーメン屋で一杯のラーメンと日本酒1本を注文したこともあった。しかし、生卵を落とす余裕はなかった。時にはデートで女性におごってもらうことすらあった。

長沢節『スタイル画教室 モード・エスプリ・デッサン』

それでも寛斎は下宿に帰るとスタイル画の勉強に励んだ。長沢節氏の『スタイル画の描き方』1冊だけを頼りに、雑誌『装苑』『モード・エ・モード』の写真を書き写す作業を繰り返すのだ。

その頃の寛斎の目標はと言えば「装苑賞」である。
ファッション雑誌の老舗『装苑』が主催し、デザイナーの登竜門とも目される最も由緒ある賞であった。

装苑賞に応募を始めた当初の段階において、寛斎の描くスタイル画が審査員の眼に留まることは皆無だった。しかし、コシノ先生に弟子入りして3カ月ほど経った頃に、寛斎のスタイル画が装苑賞候補作品となった通知が彼のもとに舞い込んだ。

そうなった場合、彼のすべきことは何か?
それは、スタイル画によって作られるであろう服の製図(※)をもとに型紙をおこし、実際の生地を裁断し縫い合わせることで服を完成させなくてはならないののだ。しかも装苑賞の場合、ある程度服を完成させてから「モデル」に合わせて一旦仮縫いし、最終的に一着の衣装を完成させるプロセスを踏む。
(※服の生地をどのようにカットするか、正確に記された設計図のようなもの)

しかし、大きな問題があった。実は、寛斎は製図がまったくできなかったのだ。彼は洋裁教室を営む母親に頼んでどうにか服として仕上げたものの、本物のモデルを前にして仮縫いすらままならず、完成した作品も服と呼ぶにはあまりにお粗末な代物だった。寛斎の作成は最終候補作品の中で最下位に沈んだ。

しかし、寛斎は腐ってはいなかった。意を決した彼は、服の仕立てを一から学ぶため『オートクチュール・ホソノ』の細野久氏に師事し、最下位の「縫い子」になったのだ。

そこでは厳しい修業時代があった。
そして、寛斎が晴れて装苑賞を受賞するのは、それから約2年後のことだ。コシノ先生の所も含めると、ファッションを本格的に学んでから約2年半に寛斎は『装苑賞』を手にしたことになる。

1973年、山本寛斎が29歳頃の写真。共に写っているのはミュージシャンの「キース・エマーソン」である。山本寛斎と同じ1944年の生まれだった彼は、2016年に71歳でピストル自殺を図った。

この2年半という月日を、長いと見るか短いと見るかは評価が分かれるところだ。寛斎にしてみれば、それは明らかに「早すぎた」ということになる。ファッションに対する自分の世界が全く確立していなかったからだ。

当時、既製服のメーカーに勤めていた彼は平凡なデザインに飽き足らなくなり、独立して服を手掛け始めたが全く売れなかった。「装苑賞」を受けた『装苑』からも仕事がくることはなかった。”寛斎風” のスタイルが確立されていない以上、それも無理からぬことのように思われた。

そんな悶々とした気持ちを抱えるある日、彼の眼に飛び込んできたのが ”ヒッピー” である。

ヒッピーらが身につける、既成概念にとらわれないサイケ調の衣装の数々は寛斎を大いに魅了した。彼はヒッピー文化の写真をかき集め、研究を重ねてゆく中で確実に世界観が大きく旋回してゆく手ごたえを実感した。

彼はあらためて独立し、自分がデザインした服をまとって街にでた。自分がモデルであり、街がショーの舞台である。
すると奇妙なことに、日本で初めて誕生したディスコ『ムゲン』のオープニングセレモニーに招待されたのだ。

角界の有名人が居並ぶ中で、シースルーの黒のブラウスに、金のハトメをたくさん打ち込んだ白い皮のベスト・スーツを着て出席した。ある紳士が近づいてきて、私のスタイルをほめた後、名刺をくれた。西部デパートの婦人部部長・三島彰氏だった。
「実は近々、渋谷店にアバンギャルドなコーナーを作るんだけど、君も商品をおいてみないか」

山本寛斎『寛斎完全燃焼』(新潮文庫)〔139P〕

これをチャンスと見た寛斎は手持ちの5万円を使い、数着分の生地を購入。自分が本当に納得のできるヒッピー風の服を5,6着を作って西部に納品した。

実は、『やまもと寛斎』ブランドがデパートに登場したのは、これが初めてだった。そして、ここにきてようやく時代が山本寛斎に追いついたとも言えるかもしれない。

世間が、山本寛斎に熱い視線を向けはじめた──

(※本文中、敬称は省略させていただきました。)

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