「不安」は言うが「怒り」を表明しない日本人の正体

マスクを求めて小競り合い、殴り合いが起きた

安倍首相による「休校要請」が突如として発令されたのが2月27日。その後29日に開かれた緊急記者会見では、要請の判断そのものは専門家らによる意見を踏まえたものではなく、安倍首相の独断であったことが判明するなど、安倍政権による新型コロナウイルス対策は、当初から輪郭を失っている。

そんな中、日本国内では何が起こっていたかと言えば、トイレットペーパーやティッシュペーパーの ”買い占め” である。私もこの時は自宅周辺の大型量販店をあれこれと観察して回ったが、どこもトイレットペーパーとティッシュペーパーは見事に買い占められていたのに唖然とした。

そして、その後は ”マスク不足” である。ペーパー類の品薄はほどなく解消に至ったが、マスクは未だ全く市中に出回っていない。かろうじて販売された僅かばかりのマスクをめぐり、小競り合いや殴り合いなどが一部で発生したとも聞いている。日本人の心は、今、殺伐としているように見える時がある。

押井守が「怒り」≒「暴動」について語る

その意味で上記の大下氏の懸念はもっともである。収入が途絶え、いよいよ行き詰まり生きる術を失ったら、人々はそのような行動をとるのだろうか? 略奪行為や暴動が起きてしまうのではないか、と──。

しかし、ここに極めて興味深い1冊の本を紹介する。アニメ作品『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』でも知られる、アニメーターの押井守氏による『コミュニケーションは、要らない』である。

この『コミュニケーションは、要らない』の中で、押井氏は不謹慎とも受け取れる、しかし重要な問いかけを我々に提示している。それは次のような下りである──

 なぜ、福島で武装隆起がおきないのか僕は不思議に思う。
 福島に限った話ではなく、東北というのは多かれ少なかれ、こうした搾取の歴史が明治維新後の新政府になってから延々と続いているのだ。そして、これは東北だけの問題ではなく、沖縄にも、北海道にも当てはまる。

押井守『コミュニケーションは、要らない』(幻冬舎新書)

これはもちろん、「東日本大震災」に対する押井氏の率直な疑問だ。
彼に言わせれば、日本人は東欧のように問題に対して正面から衝突することなく、問題を先送りしているだけだという。

そして、それらの問題は何ら解消されることなく、そういうことを問わないことで日本人は日本人という意識を共有し、意識の深層で問題をずっと引きずっているから──それが押井氏が導き出した回答である。

つまり、これらは日本人の抱える『コミュニケーション不全の本質的な問題』ということにもなるし、このことをさらに政治の世界へと深掘りしてゆけば、『日本人の政治的動機とは一体何だろう?』ということに繋がってゆく。

これもなかなか鋭い視点である。
確かに、外国とそこそこ上手くやって外貨を稼ぎたいこと以上に、日本には国家として発信したいメッセージなどあるのか? ということ。しかも、最近ではその外貨稼ぎですら中国などに押され、日本はすっかり影が薄くなっているではないか!?
日本は一体何をしたいのだろうか?

  • 覇権国家にでもなりたいのか?
  • アジアの盟主を狙っているのか?

そのような気などさらさらないのだ。
この国では異文化の摩擦も求められていないし、価値観の相克も求められていない。ゆえに、本当のドラマも求められていない。震災の被害者にしても願いの大半は、せいぜい昔に戻りたいということだけだ。

よって、安寧な日常を求めているだけなら、コミュニケーションをとる必要もないということになる。

 日本国内にどんなに不満が鬱積していても、欧米のような暴動が起きないのはなぜなのだろう? 起こそうとして起こした学生運動ではなく、自然発生的に暴動が起こったことが戦後にあるだろうか。突発的に起こってしまう悲惨な事件はあるが、日本ではそれが暴動に繋がらない。
 それは単なる国民性というだけでは片付けられないように思う。
 なぜなら、戦前までの日本では、しばしば国内で暴動が起きていたからだ。

押井守『コミュニケーションは、要らない』(幻冬舎新書)

戦前の日本ではしばしば暴動が起きていた。では、戦前と戦後の日本は何が違うのか? 押井氏の言うところでは『国内の状況について責任を取るべき存在が、日本の政府ではなくなったという事実』ということになる。

戦後の日本人は、心のどこかで日本政府を責めても仕方がないという諦めの中で暮らしてきた。つまり、『暴動が起きない理由とは、暴動に値する内実がないから』なのである。

本来、議会政治というものは、誰に責任があるかを明確にするシステムのはずだ。明治時代までは政治家がスキャンダルで辞任に追い込まれることはなかったが、現代では政治家に対してモラル面ばかりが強調される。

不倫疑惑が持ち上がった政治家は必ずバッシングの憂き目に遭うし、なぜ、福島を視察した大臣が「死の町」と言った、たかがそれだけでクビになるのか? 当事者や文化人だったらこんな事にはならないはずなのだ。

 一瞬一瞬の感情に流され、目先のレベルでしか物事が判断されていないからこういうことが当たり前のように許容されている。情緒に訴えることで論理的な思考を麻痺させ、正しいとか正しくないとか言い合ってコミュニケーションをはかったつもりになり、その判断の積み重ねで、今の日本になってしまった。そろそろ我々はそれをしっかりと自覚すべきだ。

押井守『コミュニケーションは、要らない』(幻冬舎新書)

日本人──民度が高いのか?は思考停止なのか?

「東日本大震災」について、私には興味深い経験がある。

大地震が起きた2011年3月11日、その日は東京都内では電車も軒並みストップし、多く人々が徒歩で帰宅したり職場近くに宿泊せざるを得ない状況に追い込まれた。
その日、私は徒歩での帰宅を試みた。3時間ほど歩けば家にたどり着けると思ったからだ。

実際に職場を出て30分ほど歩くと、JRの踏切に20人ばかりの人だかりができていることに気がついた。もちろん道路は自動車で数珠つなぎの状態だ。

私は、何か事故でも起きたのかと思い、状況をその中の一人に聞いてみると、「かれこれ30分もの間、遮断機が下り踏切も鳴りっぱなしだが、電車は一向に通過する気配がない」という。

あれだけの大地震だ。電車など当面は動くはずもないのだ。
それにしても驚くべきは、こららの20人ばかりの人々は、まるで阿呆のように30分以上もの間、律義にも開かずの踏切の前で電車が通過し、遮断機が上がるのを待っていたのである!

左右の見通しがきく踏切だった。電車が来ればすぐにでもそれと分かる。つまり、車ならいざ知らず、その状態で歩行者が踏切を渡ってしまってもさほど危険ではなかった。

私は「ああ、そうですか」とばかりに手で遮断機を持ち上げ、一人踏切を渡り始めた。するとどうだろう? それまで律義に待っていた20人ばかりの人たちも、私の後に続きぞろぞろと渡り始めるではないか!

東日本大震災では、あれだけの被害に直面しながらも暴動などは起きなかったし、避難所での整然とした立ち振る舞いは世界中から賞賛の声が寄せられた。確かに、日本人は民度が高い国民なのかもしれない。

しかし、私がJRの踏切で目撃したのは ”思考停止” した人々の姿である。

押井氏が指摘するように、”一瞬一瞬の感情に流され、目先のレベルでしか物事を判断しない” 人々の思考は当然浅いものとなりがちで、震災のような重大局面に出くわした時、おそらくは思考停止するものと思われる。そう感じる場合を幾度となく目にした気がする。

暴動を起こさない日本人を語るとき、それが民度の高さなのか思考停止した姿なのかは、なかなか微妙な問題を孕んでいると思われる。

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